その物語を開き、読むのは誰か。

見えるものは見えず、聞こえるものは音をなさない。
見えないものを見、聞こえないものを聞く。
はるか彼方の真理の沼に、その身を沈めよ。

 『プリンセスチュチュ』は、書き手と登場人物の相克の物語と言われるけれども、実は最強なのは「読み手」なのではなかろうか。登場人物に真の心を与え、物語世界を形作るのは、読み手の裁量だ。
 そもそも、開かれない本の中に閉じ込められた物語は存在するのか? どんなに書き手が思いを込めて書いた物語も、誰にも読まれなければ、存在しないも同じだ。
 物語を生かすも殺すも、読み手次第。解釈はすべて読み手にゆだねられ、すでにできあがった物語に書き手が干渉することはできない。本来ならば。

お終いは必然、閉じないお話は残酷なもの。

 しかし、『プリンセスチュチュ』世界のドロッセルマイヤーという書き手は、物語の完結を阻まれ、死んでも物語を描き続け、登場人物に干渉できる存在である。書きあがっていない物語であれば、後出しの設定も、どんでん返しも思いのまま。登場人物は見えない手に操られ、読み手も二転三転する物語に翻弄される。

所詮ただの人間のあなたにできるのは、本を調べる事くらいかもね。

 このサイトは、「その物語を開き、読むのは誰か。」の視点から、『プリンセスチュチュ』というアニメを読み直してみようという試みです。検証、というよりも、妄想、創作の部分がかなり大きくなりますが、単なるお遊びだと思っていただければと思います。
 読み間違える自由も読み手の裁量のうち。完結した物語は、読み手のもの。ということで。
(ちなみに制作者の方に、「私はカロンさんが黒幕だと思ってるんです!」と言ったら(言うなよ)、笑って否定されました!なので、これは本当の本当にただの妄想です)