『ウォルト・ディズニーの約束』

プリンセスチュチュ』の物語作者のドロッセルマイヤーは、読者たちによって両腕を落とされ、物語を取り上げられ、死してもなお物語の続きにこだわり続け、お話をコントロールしようとする。
しかし、未完の、アンハッピーエンドになるはずだった物語は、後世の読者や作家によってハッピーエンドに書き換えられ、人々はそれに救われた。

公式サイト:http://ugc.disney.co.jp/blog/movie/category/walt

真っ赤な嘘と、真っ黒なディズニーと、真っ白な物語。
原作の『メアリー・ポピンズ』も、ディズニー映画の『メリー・ポピンズ』も、パメラ・トラヴァースについても全くと言っていいほど知らないまま見にいった。今も全く知らないまま、この映画の感想を書いている。
以下、ネタバレを気にせずに、思ったとおりのことを書くので、人によっては不快に感じられる方もあるかと思うが、了承されたい。
邦題どおり、ウォルト・ディズニーのお話だと思って見に行ったから、いつの時代やわからない「大草原(というには荒野っぽいが)の小さな家」みたいな映像が間に入って、びっくりした。アルコール依存症の父親とその家族の物語には、もう涙を止める事ができなかった。相米慎二の『お引越し』という桜田淳子が母親を演じている映画があるが、あの切実な雰囲気が展開されており、だだ泣きした。隣の女性などはしゃくりあげていた。
現代パートの方はといえば、頑なな原作者パメラと、ディズニーの制作者たちのやり取りが延々と繰り返される。パメラの要求は理不尽ではあるが、強烈な過去映像の影響もあって、パメラに感情移入させられながら見られていた。パメラの、原作者として物語を壊されることに対する抵抗感には、大いに共感する一方、私個人は原作を映画化することで、「違う」物語を見る悦びを支持する方ではある。しかし、その物語が原作者の内面と分かちがたい存在であり、尚且つ、登場人物に具体的にモデルが存在する場合、原作の物語をどのように「料理」して映像化することが「良い」のだろうか。その真剣なやりとりに期待しながら見ていた。
だがしかし、そのようなやりとりはあまりなかったような気がする。無理難題をふっかけ、一方的に拒絶するかのように見えるパメラ(の気持ちは理解できる。例えば髭に関するくだりなど)。対して、ディズニーの制作者たちは、案を色々繰り出すものの、どれも表面的で、原作の物語の本質にまで踏み込まない、と言った様相だ。
ちなみに、言うまでもないことだが、映画で展開されるパメラの過去(終盤まで明言されないが、明らかだ)の回想は、私たちが見ている映画のスクリーンにのみ映し出される映像だ。恐らくはパメラが『メアリー・ポピンズ』の物語を、それから書き起こしたディズニーの脚本の読み合わせをする過程で、「思い出す」過去の記憶、なのだろう。当たり前だが、ディズニーの制作者たちは、この映像を共有していない。劇中の制作現場で、パメラの過去、すなわち『メアリー・ポピンズ』がどのような生い立ちに、誰をモデルに存在しているのかということには誰も触れない。あくまでディズニー映画『メリー・ポピンズ』の表面的なお家のデザインとか役者、歌などの話をしているだけで、原作の内容深くに踏み込むことはしなかった。
映画では、しかし、やがて、パメラはなぜかディズニー制作者たちにほだされていく。なぜか?それは私には全くピンと来なかった。あれほどミュージカルにするなと言っていたのに、最初から完全に断るつもりであることは明々白々の態度で臨んでいたのに、特に深い話をしないまま、なんとなくディズニーランドに連れて行かれて、無理矢理木馬に乗せられて。私の中の「パメラ」はそんなことでは笑わないよなあといぶかしんでいるうちに、凧揚げの歌で踊りだす。よくわからないなあ……と思いつつも、並行して語られるアルコール依存症患者家族の物語には爆涙の勢いなのだが、それとこれは話は別なのだ。これは単なるパメラの回想で、パメラの過去の物語、パメラと映画を見ている私の間にしかない映像であって、ディズニースタジオではパメラの過去には一切触れていないのだから。
そして、終盤。怒って突然イギリスに帰ってしまったパメラの旅券を見たウォルトが、「ヘレン・ゴフって誰だ?」と驚く。「あの人の本名です。英国人ぶっているけれども、オーストラリア生まれなんですって」と。
驚いた。
一つには、回想シーンの時代錯誤的な雰囲気と、とてもイギリスとは思えない景色、実際にイギリスではない国旗が時々現れたのに疑問を抱いていた、それが「あ、やっぱりオーストラリアだったのか!」と納得したということ。この点に関してはなかなか面白い感動ではあった。
もう一つ。……ウォルトは、それを知らなかったの?ということ。20年間、映画化権をくださいとやり取りしていたにも拘らず、彼女の出身地すら知らなかったという。ありえない。よしんば、ありえたとして、ありえたのだとしたら、『メアリー・ポピンズ』に重ねられた彼女の生い立ちを、私たちが映画製作場面と並行して見せられていた彼女の幼少の頃の生活を全く知らないまま、『メアリー・ポピンズ』を、真に表面的に、ただの物語として、映画化しようとしていたということになる。どちらにしても、ありえない。これは「嘘」だ。明らかに「嘘」の場面だ。明白に、「私たちは真っ赤な嘘をついています」と、映画の中で言っている。
さて、ここで初めてパメラ・トラヴァースがオーストラリア人だと知ったウォルト・ディズニーは(嘘だ)、すぐさまその日のうちにパメラを追いかけてイギリスへと飛び立つ(これは本当かもしれない。知らんけど)。そこで、幼少のパメラと父の葛藤に己の父の思い出を重ね(もしパメラの出身がオーストラリアと知ってすぐさまイギリスに飛び立ったのだとしたら、インターネットもないこの時代にパメラの過去をすぐさま深く知り、『メアリー・ポピンズ』を深く読み解き、共感することができただろうか。いや、できない。絶対に不可能だ。「嘘」だ)、パメラの心を解きほぐし、パメラは号泣する。
ありえるか、これは?ありえないだろう。一番重要な、クライマックスの説得の場面が、嘘だ。と私は思った。
ウォルト・ディズニーは、この映画の始まった時点では既に、彼女がオーストラリア出身であったことは知っていたのだろうと推測する(本当にあのタイミングで初めて知ったのだとは私にはどうしても考えられないから)。その瞬間、この映画の現代パートが、オセロの盤面をひっくり返すように、全部白黒が入れ替わってしまったのだ。この映画は最初から「嘘」しか描いていないのだと。彼女の内面に踏み込まないまま、表面的なところで繰り広げられていたやりとりの全てが、事実だとは信じられなくなってしまった。
映画では、パメラの了承を得て、ついにディズニー映画『メリー・ポピンズ』が完成する。しかし、ロンドンの彼女のもとには完成披露会の招待状は届かなかった(ウォルトが渋面で、彼女をアメリカに呼ばないことを決定している。ウォルトとパメラはこの時点で上手くいっていなかったのだろう。多分、これは本当)。しかしパメラはアメリカにやってきた(本当なのかな?)。映画を見たパメラは顔をくしゃくしゃにして涙を流し、悪態をつく。この涙の意味は?映画を否定する言葉に込められた真の意味は?彼女が映画を見て泣いたのも、映画を認めないと言ったことも恐らく本当なのだろう。ウィキペディアによると、不満に思っていたのは事実であり、その後、ウォルトとは関係を絶っているとのことだから。しかし、その「意味」は見る者に委ねられる格好で、映画はさもハッピーエンドであるかのように幕を閉じる(私も帰宅してウィキペディアを引くまでは、否定した事実をしらなかったし)。エンドロールには、パメラがシャーマン兄弟とやりとりする肉声と思しき音声が流れる。「この映画は事実に基づいています」という証拠を示すかのように。
パメラ・トラヴァースにとって、『メアリー・ポピンズ』はとても大切な物語だった(私は読んだことはないけれども)。ダメなアルコール依存症だった父と、それでも彼を愛していた自分を、どうしようもない悲しみと後悔を救うための物語が、きっと『メアリー・ポピンズ』であり、だからこそ、その物語を他人に翻案されることにあれだけ抵抗したのだ。ということは、この映画からものすごく伝わった。素晴らしかった。
一方、『メアリー・ポピンズ』の物語で、読者も自分の中の悲しみを救われたのだろう。ウォルトの娘がそうだったように(それはむしろ、娘のために父がなのかもしれないが)、ウォルトが自分自身の父親を重ね合わせたように。
去年飛行機の中で見た『藁の盾』という映画(関空台北便だったので最後まで見ていない)。特に好きな映画ではないけれども、終盤で大沢たかお演じる刑事が「物語だよ!」と絶叫するシーンだけは印象に残っている。亡くした妻の記憶、その真実と向き合うのが辛すぎて、刑事は妻との思い出の「物語」をあたかも過去本当にあったことであるかのように信じ、演じて生きてきた。そうするしか自分を救う方法がなかったから。
「物語」は人を救う、その手助けとなるのだと、私も信じている。『メアリー・ポピンズ』はきっと素晴らしい小説だったのだと思うけれども、ディズニー映画『メリー・ポピンズ』がもっと沢山の人を救う物語となるだろうと、ウォルトが真剣に思っていて、実際にそうなったんだろう。
だが、パメラ・トラヴァース個人が抱えている記憶、物語、守りたかったものは、結局守られなかったんだろうなあととも思うのだ。この映画を見る限り。そして、亡くなった後もなお、パメラの生い立ちが、『メアリー・ポピンズ』よりももっとプライベートな物語が、こんな映画の形で晒されることを、彼女が望んだとは、私には到底思えない。……だけど、小説すら読んでいない私が、死んでしまって今はもうない「作者の気持ち」を推測できると思うこともおこがましいことではある。それも重々承知している。
そして、この映画を見た多くの人々が、パメラとウォルトの交流に感動し、それが真実であったか否かに関わらず、感動の涙を流し、心の中の父親かそれに類する何かを救われたと感じたとしたら。この映画にはそれだけの力があることは確かだと思う。映画に対する感動に、何が真実で、何が嘘だったのかは関係ない。パメラの過去もこだわりも、本当にあったことかどうかよりも、「この物語」の方が、見る者にとって真実になりうる。
私たちは、事実がどうだったのかを知るためにこの映画を見ているわけではないし、原作者の意図を知るためにディズニー映画『メリー・ポピンズ』を見るわけではない。正直「そんなことはどうでもいい」のだ。その作品が自分の中で感動を生むものであれば。歴史的に正しくなくても、パメラのこだわりが守られなくても「どうだっていい」と感動した人は言うだろう。
物語は事実を凌駕する。
天国の彼女が、この映画についてどう思っていようと、「この映画の勝ち」だ。今の大ディズニーには、この感動的な映画を作る技術と財力とテクニックがあり、現にこの映画ができあがった。嫌味ではなく、さすがはディズニーと感心した。
ただ一つ、この映画が映画の中で、「この話は嘘をついてますよ」と言っていることは、少なくとも私にとっては救いだと感じられた。わかるように見え透いた嘘をつくことで、「彼女の真実の物語」は晒されていないと解釈することが出来るから。彼女の流した涙の意味が何だったのか、それを映画自体がストレートに語っていないことも含めて。それがこの映画の誠意、と思っておく。私たちが感動したのは、「この映画で描かれた物語」に対してだ。
「作品」に読者がどのような「物語」を見出そうとも、作者がそれを意図していようといまいと、全て読者の自由なのだ、と、私は常日頃思っている。読者はどんな物語を見出していい。作者のかんがえていることなど、その読者の権利の前には全く意味をなさないのだ。だって、作者がどう思っていたのかなんて、完全なブラックボックスだし、読者が物語を読むのは、作者の意図を当てるためではないのだし。物語を物語として、自分の心の中に取り込み、展開し、自分の物語と化する。そうすること以外に、読者に与えられている方法はない。
そして、原作小説を映画化する、というのも、そういうことなんだと思う。「良い映画」は決して「原作の通り」でなければならないことなないし、全て「原作の通り」であることが求められるのであれば、それはメディア化する意味がないということなのだから。
ということをひっくるめて、作者に関係なく、受け手が作り上げる「物語」の力の強さと、ディズニーの権力の強さと確固たる力と、怖さを感じられる、強い映画であったなあという複雑な感想を抱いたのでした。
なんか整理し切れていないけれども、一応現時点の感想としてここに残しておく。
共感したブログ記事。
ウォルト・ディズニーの約束』感想、メリー・ポピンズ誕生のきっかけを知った時、愛着以上に胸が苦しくなる作品。完成度文句無し。
http://www.cinemawith-alc.com/2013/12/savingMrbanks.html
アルコール依存症の家族が見た「ウォルト・ディズニーの約束
http://misak.hateblo.jp/entry/2014/03/24/203227