古谷田奈月『星の民のクリスマス』【ネタバレ】

星の民のクリスマス
星の民のクリスマス
posted with amazlet at 13.12.07
古谷田 奈月
新潮社
売り上げランキング: 5,046

ある年のクリスマス。歴史小説家の父は、四歳の娘へのプレゼントにおとぎ話を書いた。
金の角と銀の角をそれぞれ持つ2頭のトナカイと、サンタクロースが登場する物語。娘は大喜びで、そのお話を繰り返し読みふけった。娘は成長するにつれ、世界との居心地の悪さをなんとなく感じていく。そしてとうとう十歳になったクリスマスイブの夜、星を見に行くと父に告げ、そのまま姿を消した。
半狂乱で雪山を探し歩く父の前に、「銀色の配達員」と名乗る男が現れる。「選んでください。逮捕されるか、おとなしく帰るか」。父は悟った。娘は、自らが贈ったお話の中に逃げていったことを。
そして彼女を救う術は、物語しかないことを。父は娘を探すため、お話の中の世界に忍び込むが……。
親と子、そして物語への愛がこぼれだす、残酷でキュートなファンタスティック長篇。
荒俣宏:いちばん気に入った作品は『今年の贈り物』であった。「文学の中の主人公と、その創作者すなわち作家との対決」というストーリーは新味に欠けるが、サンタクロースの世界を挟み込んだところがユニーク。キツツキの子が個性を発揮し、世界の謎を解いていく部分は読ませる。しかし、三重構造の世界を書き分けるのに、相当のプランと書き込みを用意したという気配がない。各世界への出入り時点でその接続構造が詳しく描かれるべきである。
小谷真理:『今年の贈り物』はなんとも奇妙な読後感を残した。サンタクロース伝説を素材にしているのだが、贈り主と受取人の話というより、そこに介在する「配達」をめぐる思索を主軸にしているからだ。大賞にすべく賛同したのは、配達に関する物語という斬新なアイディアと、見えないものを言葉にしようとする、幻想の文学への志向に賭けたからである。
椎名誠:『今年の贈り物』は非常に読みにくい困った小説だったが、将来プロをめざせるポテンシャルを随所で感じた。
鈴木光司:『今年の贈り物』は父が娘のために書いた物語で、娘はその物語が気に入り、物語の世界に入ってしまう。空想の世界に人間が入り込むという設定は陳腐である。構想もなく、行き当たりばったりで書いたであろう若書きの全体から、なぜか、奇妙な魅力が匂い立つ。その魅力が大いなる可能性につながることを期待して、一票を投じた。
萩尾望都:『今年の贈り物』は読みながら、なにか不思議な新しいものに触れている予感に満たされていて、どきどきした。精神が存在する、精神が不在である、そういう微妙な問題をどのように形にするのか? この物語は、どこへ着地するのか? しかし、最後まで読むと、重要な問題は未解決のまま遠くへ逃げ去っていて、肩すかしを食らったようになってしまった。


 読めば読むほど似ている。『プリンセスチュチュ』の金冠町の物語に。盗作だとか、剽窃だとか言うつもりは毛頭ない。似ている、と思うのは、『プリンセスチュチュ』というアニメ作品と、ではなくて、『プリンセスチュチュ』という作品を見て、私が「こうであろう」と思ったお話と、だから。この世に、多分私の中にしか存在しないはずのお話に、まるでそっくりだった。読めば読むほど。なんだか妄想めいていて、我ながら気持ちが悪いなあと思うけれども、この、私の中にしかない世界が、違う形で文章化、物語化されているのを読むという体験は、初めてのことで、とてもエキサイティングだった。
 冒頭、歴史小説家が小説を書く様子「現実世界と作品世界とのあいだを何度も往復しているうちに時折その境界が曖昧になり」(p.7)、手紙専門家の幼い娘が父親に自分のための物語をねだる様子、それに答える歴史小説家、物語にはまり込む娘が姿を消し、父親も物語の世界へ……などという部分は、陳腐なまでによくあるお話、なのかもしれない。
 だがしかし、早々に明かされる銀色の過去は、これはまるまんま、ふぁきあの経験ではないか。そしてその事実を物語で覆い隠されることも(熊の話)。
 私はずっと、『プリンセスチュチュ』のお話は、両親を亡くしたふぁきあが、カロングリーフケアとして与えられた物語(王子とカラスの本、騎士の生まれ変わりとか、カラスに殺された、というのもそのお話の一部)にのめり込んで、空想のお友達を出しちゃったりする話だと思っている→ http://d.hatena.ne.jp/mushani/20910831/p1 (他にあひるの「お話」、るぅの「お話」、あおとあの「お話」等が渾然と存在している状態が「金冠町」であると)。両親が亡くなった理由も、何らかの事故か事件か(ふぁきあを守るためか、ふぁきあのせいでか)であって、「カラスに殺された」というのは5歳程度の子供の「理解」あるいは大人たちが作り話に用意した説明にすぎないと(作中ではレイツェルの回想として映像で表現されているが、言葉で断言はしていない)。
 銀色の過去のエピソードは、一般的なありきたりなお話には程遠く、これでふぁきあを連想したとしても、許してもらえる……よね?(小説の最後まで読み進んでも、そのインパクトとイメージの大きさの割りに、フックとして取り立てて機能することはなく(最小限に留まっている)、……『ことしのおくりもの』の世界の創造主の片割れである「読者=娘」が感じている両親との心の乖離の現われとして、この町(お話)に、「父親」に現出したのかしら)。
 これがきっかけに、もう一つの金冠町の再話として読むことを、最後の最後の1行まで、やめることができなかった(作者の方には、こんな邪道な読まれ方は全く歓迎されないだろうが)。
 「ふたりのお父さん」。
 世界を疑い、独自に研究し、解明しようとする生意気な小鳥の子供。彼は「擬人化」を馬鹿にする。
 星が見えない、空が見えない、常に雪雲に覆われた町の様子。
 気象塔。円形広場は壁に囲まれている。
 結婚譚。→ http://d.hatena.ne.jp/mushani/21020816/p6
 それぞれは些細なこと、多分(というか、絶対に)私の思い込みにすぎないのだけれども、多分、この人が抱いている「物語を読む」行為に対する感覚は、私のそれととても近いのではないかなあと思えて、とても楽しかった。