日本学博士前期課程 布山美慕「読書の非インタラクティブな行為の可能性―我を忘れる読書―」

http://shitau.cocolog-nifty.com/blog/files/20111207_.cc%E7%94%A8.pdf
より引用。

想像について考察する。読書するときは読書しているという現実とは異なることを読んでいる。人によってその読書方法は違うので、具体的に情景を思い浮かべている人、感情移入している人もいれば、その物語の状況を把握しているのみの人もいるだろう。しかし、それぞれが、そのときの自分の現実とは異なることを想像している。記憶は想像と深い関係があるが想像するのと思い出しているのとは違う。極端には SF などの実際には存在しない物が登場する物語を考えればわかる。例えば言葉を話す動物について、現実には存在しないのだから、それは、記憶を思い出す、というのとは異なる。
無論、想像は読書に固有の動作ではない。想像は日々様々な場面で行われる。それでは読書における想像の役割とはどういうものなのだろうか?
読書において、想像するとき、それは物語のストーリーと不可分である事が多い。ストーリーとまで言えなくても、それは単体ではなく、物語全体と関係している。つまり物語の雰囲気であったり、物語の構成要素だ。物語の雰囲気、構成要素を創る想像。それは必然的に物語と相互関係を持ち、物語によって引っ張られ、同時に物語を引っ張る。
一方でその物語は出来上がっているものである。
未完であっても、とにかくもその時点での終わりと言うものが存在することが保証されている。最後のページが存在する。そして、先は定まっている。読んでいる人が、捲るときに何を考えているかによって、次のページの内容が変わることはない。読んでいる人が何を考えていようとも、書かれている内容に変化は無い。無論読んでいる人が何を考えて捲るかによって、その人がそのページから読み取る内容は変わるだろう。読み取られる内容は読み手の状態に依存するからだ。しかし読んでいる本人にとっては、次のページに書かれていることは確定している。自分がどうあがこうとも、次のページの内容に変化が起こらないと信じていられる。そのようにして、読者も物語に引っ張られている。
読者には選択肢が、物語の先を決める選択肢が無いので迷うということがない。読むことが辛く、または考えさせられ、すらすらとページを捲ることが出来ないということはある。しかしそのことが物語には影響しないと思っている。
そして読者は自らの想像が物語に影響しないということを信じて想像することができる。だから読んでいる時に自らが何を想像しているのかということは殆ど意識しない。
このように物語に引っ張られ不断に続く想像を介して人は物語に引っ張られる。想像が断絶する物語はだから人を引っ張れず夢中にさせることができない。読みにくくても人を離さない物語もあれば、文体が簡素なのに物語的リアリティ即ち物語と有機的に結びつく想像内容を喚起できないためにブツブツと現実に戻ってしまう物語が存在する。

読書の本質は新規コンテンツの獲得ではない。私という境界を作ること無く物語に没入し思考以前に戻ること、その経験自体が私たちを変えていく。そしてその境界の失い方、失った後の私たちの形、それらを規定するのが個別の物語である。

読書をしているときのその「物語」の作り手の曖昧さ、どのように「物語」があらわれてくるかということ曖昧さである。VR を体験するときは、明らかに外部にそれを作った人、作っている人がいることを感じる。そうして自分の五感に刺激が与えられていることがわかる。しかし我を忘れて読んでいるとき、自己が曖昧になっている私はその「物語」が誰かによって作られているとは感じないしどのようにして自分が物語を感じているかもわからない。つまり作り手、あらわれ方が曖昧である。実際にはこのとき私たちは文字を読みながら自分の想像力を用いてその物語をあらわしている。新しい世界を創造するデバイスやアプリケーションの内部化によって、読書という行為は主体を失い客体であったはずの文字を巻き込んで行われる創造行為とも捉えられるだろう。